2020年05月28日

「隼人の実像」中村明蔵

隼人の実像―鹿児島人のルーツを探る― - 中村 明蔵
隼人の実像―鹿児島人のルーツを探る― - 中村 明蔵

旅人を語るとき、どうしてもはずせないのが隼人です。
当時の隼人がどんな状況にあったのか知りたくて
手にしたのがこの本。

710(和銅3)年正月、旅人は元明天皇の朝賀に際して、
左将軍として副将軍・穂積老と共に
騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進しました。

720(養老4)年、大隅守・陽侯史(やこのふひと)麻呂を殺害した隼人の反乱では
征隼人持節大将軍に任命され、
1万の朝廷軍を率いて鎮圧にあたりました。

7世紀後半ごろ対隼人政策として
主に天武朝のころ隼人は畿内に移住させられていました。
隼人は衛門府の隼人司に属して、儀式に参加。
170人ほどの隼人が宮殿の入り口の応天門の外で、
儀場に入る官人に吠声(はいせい)を発しました。
吠声とは「オオオォォオ〜」というような
犬の鳴き声に似たもので邪気を払う力があるとされていました。
服装も決められ、白赤木綿の耳飾りをつけ、
赤い絹布の肩巾を身に着けました。
手は楯と槍を持ちました。
楯のデザインは独特で上下に三角文(鋸歯文)が描かれ、
中央にはSの字を鏡文字にしたような連続渦巻文が
上下で繋がるように三色で描かれていました。
さらに隼人舞も舞いました。
朝廷の隼人は朝廷の権力が遠い九州の果てまで及んでいることを
誇示するために演出されていたようです。
九州の隼人は都まで貢物を運び納めるだけでなく、
その後8年も労役に従事させられ、苦しんでいました。
さらに豊前、肥後から大量の民が隼人の土地に移住させられ、
土地を奪われた隼人は自由を求めて反乱を起こしたのです。

旅人は藤原不比等が亡くなったため、
半年ほどで都に戻りましたが、
隼人の抵抗は1年半に及び、
朝廷軍は捕虜と討ち取った首をあわせて1400人分を持ち帰ったといいます。

征服者側であった旅人は隼人をどんな面持ちで見つめていたのでしょうか?
旅人の歌は大宰府の帥になったあとに作られたものがほとんどで、
隼人に対する心情は分かりません。
タリシサ、シジハシ、カネホサ…、
倭の言葉とは違う響きを持つ隼人の名前。
征服されはしたものの、抵抗する人々であった隼人の埋もれた歴史が気になっています。
posted by 理乃(ニックネーム) at 14:16| 福岡 ☀| Comment(0) | ★太宰府関連本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする