焼米ケ原に行く手前で寄ったところがあります。
それはわたしが太宰府でもかなり好きなところ。
「岩屋城跡」です。

(※クリックすると大きくなります)
四王寺山の林道、焼米ケ原の手前にあります。
前後に4台くらい車をとめられるスペースがあるので
駐車して山道を歩きます。
岩屋城跡は戦国時代の山城跡。
ここに本丸がありました。
天正14年(1586年)、
島津軍と大友軍の高橋紹運公が壮絶な戦(岩屋城の戦い)を行った戦場です。
紹運公は高櫓に登って割腹し紹運以下763名全員が討死、自害して戦いは終わったといいます。
それではここから登っていきましょう。
ごいっしょにどうぞ。



開けてきました。



なんていう眺めでしょう!
絶景です。
現代人のわたしは脳天気に景色を楽しんでいられますが、
500年前、高橋紹運公以下763人の武士たちは
眼下に結集した5万の薩摩軍を見て、
悲壮な思いに囚われていたことでしょう。

都府楼跡も航空写真のようにすぐ下に見えます。

これが「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑です。

昭和30年に建てられています。

石工は太田三次郎さん。

周囲の山の説明版がありますので左からパンします。
それぞれクリックすると大きくなります。
ここがどんなに見晴らしの良い場所かお分かりになると思います。







九州国立博物館も見えています。
6月13日まで「パリに咲いた古伊万里の華」が開催されています。
(わたしは初日に見てきました)

ここは岩屋山。標高281m。

すぐ下に桜の木々に囲まれているのは
ここで討ち死にした武将、高橋紹運公の墓です。
死に際が潔かった高橋紹運の墓を守るのに
まさに桜の木は適しています。
すべてを思うとき、
桜の花は美しくも悲しすぎます。
★以下Wikipediaより。
「島津軍諸将は紹運の武将としての器量を惜しみ、
降伏勧告を何度も送ったが、
紹運は『主家が盛んなる時は忠誠を誓い、
主家が衰えたときは裏切る。
そのような輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。
恩を忘れることは鳥獣以下である』と敵味方が見守る中で言い切った。
敵味方関係なく賞賛の声が上がったと言われている。
落城後、攻め手の総大将だった島津忠長と諸将は、
般若台にて高橋紹運の首実検に及ぶとき、
『我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。
紹運と友であったならば最良の友となれたろうに』
と床几を離れ、地に正座し涙を流したと伝わっている」
さあ、それではもとの道に戻って、
高橋紹運公のお墓へ行ってみませんか?
すぐ先にありますから。





石垣に囲まれた高橋紹運公のお墓が見えてきました。


高橋紹運公はここに眠っています。
先のWikipediaからの引用を読まれた方は、
ここにはからだだけが眠っているとお分かりですね。
首の方は下の場所に眠っています。

二日市にあります。

桜が咲いたら、 四王寺山に散った高橋紹運公はじめ
多くの武士たちのことを思い出してください。
【関連する記事】
綺麗ですね〜そこにたどり着くまでは大変そうですが。
もう伊万里展行かれたんですね。
私も行く予定ですがGWは人が多そうですよね・・・いかがでしたか?
今日はがんばって情報いっぱいでアップしました。
地図も補足しました。
車だったら駐車してすぐですよ。
ぜひお友だちとでもご一緒に行かれてみてください。
古伊万里展、初日で多いかなと思ったのですが、
今までで一番人が少ない中で見ました。
陶器は人気ないのかな。
もちろん素晴らしかったですよ。
有田のすごさを再認識できます。
周囲の山の写真にちゃんと名前を入れてあるのでじっくり見てナルホドです。
イノシシ増えとるとですかね、2〜3ヶ月前に那珂川町の街中をウリボウが走り回りよったし。
太宰府の歴史も発信していくので、
よろしくね。那珂川町で猪、目撃?
わたしも猪の近くに住んでいるとは思うんですけど、
まだ目撃はしてません。。。
でも、山で一人でいるとき会ったら、
どうすればいいの??
向かってきたら逃げるしかないけど、すぐに向かって来ないなら睨み合いして目を逸らさんやったら黙って去っていくこともあるばい。
お返事ありがとう。
向かってきたら逃げるか。。。
ま、戦えるわけじゃないからそうですよね(笑)
すごく登ってるみたいですが、杖はなくて大丈夫でしたかー(笑)
岩屋城の標識のところまで車で来ちゃってるし、
それから見晴らしのいいところまではすぐよ。
杖なしでOK(笑)
行ってみてね。
近々杖が必要なコースにトライするかどうか悩んでます。。。
2,3日前14km歩いて、まだその後遺症が。。。