完成から49年経つということです。
これまで宝蔵の中の仏像に心を奪われ、
建物についてはまったく関心がありませんでした。


この宝蔵ができた経緯を
このほど某大学の公開講座で知りました。
以下、講座で学んだことです。
昭和30年代、今、宝蔵に収蔵されている仏像は
老朽化した講堂と金堂に安置されていました。
昭和25年、文化財保護法が施行されたことを受け、
観世音寺の仏像を管理するために宝蔵が建設されたのです。
この建設を担ったのは昭和22年に成立した
観世音寺復興会の人々でした。
旗揚げしたのは河内卯兵衛(かわちうへい)氏。
昭和32年に観世音寺復興会はさらに多くの人を抱きこみ、
筑紫観世音寺文化財保存会へと発展します。
そして筑紫観世音寺文化財保存会の活動が実り、
昭和34年に宝蔵は完成するのです。
総工費は3500万円。そのうち1450万が募金によるもの。
この河内卯兵衛氏は明治9年生まれの博多の実業家。
漁業、貿易、紡績・鉄鋼の経営などに携わり、
福岡市長もわずか4カ月ですが務めています。
終戦前後に光明禅寺の近くに居住したとのこと。
当時河内邸には人々が集まり、
それを河内氏は「古文化を語る会」と呼んでいました。
河内氏はしきりに「何かが生まれる」と言っていたそうですが、
そうして生まれたのが観世音寺復興会だったのです。
河内氏の人脈は多額の宝蔵建設費の調達に
役立ちました。
いにしえをただ語るに終わらせず、
次の世代によい形で受け渡すこと。
これが河内氏のもたらしたものなのではないでしょうか。
日本中に素晴らしい仏像はたくさんあるのでしょうが、
この宝蔵はとても身近に仏像に接することができて、大好きな場所です。
大黒天立像は『教科書』にも挿絵として出ていたのが密かな自慢でした。よく海外出張され、たまに行くとお留守のことがありますよね。
さすがnaoさん、宝蔵のこともよくご存知ですね。仏像がお堂の中にあると、なかなかよく見られないものですが、宝蔵では確かに身近に見られますよね。大黒天立像、『教科書』に出ていたんですね。
先人の業績というものは歴史の中に埋もれてしまいがちなので、わたしも太宰府を愛する者の一人として、ただ史跡を見るだけでなく、機会あれば勉強して、このブログの中で微力ながらもお伝えしたいと思ってます。
貴重な情報をありがとうございます!
その田中氏の別荘だったところへ最近ご縁があってうかがいました。