2014年11月20日

2014霜月太宰府ガイド B 1200年前から燃える火「蓮華のともし火」

1200年も前から燃え続けている火が太宰府にあります。
この週末、竈門神社の紅葉を見に行かれる方も多いでしょう。
そう、竈門神社の近くに妙香庵というお寺があり、
そこには巨大な最澄の像が海を見据えて立っています。

千年の灯火2_1_1.jpg

その像の下の両脇で燃えている火がそれ。

比叡山を開いた最澄は遣唐使として唐に渡る前、
竈門神社の下にある竈門山寺で航海の安全を祈りました。
最澄と太宰府にはそういうゆかりがあります。

中国に渡り帰国した最澄は
今の新宮町にある横大路家に火を授けます。
その火は横大路家で守り続けてこられたのですが、
2011年に妙香案に移されました。

これが1200年、燃えつづけているともし火です・

千年の灯火_1.jpg

※2015年9月2日追記
本日、建物の中の蓮華のともし火の元火を見せていただきました。

DSC09020 - コピー.JPG
posted by Rino(ニックネーム) at 13:41| 福岡 ☀| Comment(0) | ●妙香庵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月28日

「妙香庵」 最澄像と蓮華のともし火

知人を案内して「人と木」で一休みしたあと向かったのは妙香庵。

「伝教大師尊像」(最澄像)を訪ねました。

ここに見えています。

最澄の像1_1.jpg

え? どこ?

最澄の像2_1.jpg

ここです。見えましたか?

さて、それでは近寄っていきましょう。

まず竈門神社を目指します。
突き当たりを左折、すぐにまた左折します。

最澄の像3_1.jpg

見えてきましたね。5メートル80センチの青銅製。

最澄の像4_1.jpg

最澄の像11_1.jpg

駐車スペースもあります。
県道578線沿いにも妙香庵はありますが、そちらではありません。

最澄の像10_1.jpg

最澄の像6_1.jpg

昭和62年(1987)11月15日に建立された銅像です。
以前は青い色で塗られていましたが塗り替えられています。
最澄は玄界灘の向こうの中国の方角を向いて立っています。

最澄は比叡山を開いた高僧ですね。
宝満山の麓のこの地は最澄が遣唐船を待ったところ。
延暦22年(803)、難波津から唐に向けで出航した船は
瀬戸内で暴風雨に合って難破。
その後、1年を竈門山寺(そうもんさんじ/宝満山の麓にあったお寺)などで過ごしたそうです。
この像はそのころ、最澄が30代のときの姿ということ。

最澄の像9_1.jpg

804年、最澄はついに唐に渡ります。
天台山で天台教学を学び、805年に帰国。
そのとき最澄が到着したのが花鶴ヶ浜(古賀市)。
最澄は帰国後の布教の拠点となる場所を探すため、
持っていた独鈷と鏡を空へと投じました。
二神山(立花山)の山中でこの二品を探し求めていたところ、
地元の猟師の源四郎と出会います。
源四郎は最澄を独鈷の元へと導きます。
最澄は布教のため源四郎の家にしばらく滞在。
上洛する際、最澄は滞在のお礼に岩井の水(井戸)と
唐から持ち帰った法火と毘沙門天像を源四郎に授けました。

この源四郎の家は今は千年家(せんねんや)
《横大路(よこおおじ)家住宅》(福岡県糟屋郡新宮町)
と言われています。
そして最澄が持ち帰ったという「法火」を守り続けていました。
805年からです。。。w(°0°)w
そしてその火を守る最後の人が亡くなった最近、
その火は、ここ太宰府に移されたのです。
そして今、蓮華(れんげ)のともし火と呼ばれています。

最澄の像5_1.jpg

最澄像の下に置かれた両脇の灯籠の中で火は燃え続けています。
1200年前の火です。

最澄の像8_1.jpg

最澄の像7_1.jpg

気が遠くなるお話ですが、
この青年僧のなんとダイナミックな人生。。。
それにも増してすごいのが、
今にわたるまでその火を守り続けた人々がいたこと。。。

最澄の像12_1.jpg

あたりは鷺も羽を休める静かな里山。
軽く平安の時代にタイムスリップできる太宰府で、
往時に心を飛ばしてみる、
そんなゴールデンウィークの過ごし方はいかがでしょう。
posted by Rino(ニックネーム) at 14:44| 福岡 ☁| Comment(0) | ●妙香庵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月30日

妙香庵の最澄の銅像

内山で最澄を発見!
5メートルもある大きな像です。

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天台宗妙香庵の境内にある昭和六十二年に建立された銅像です。
最澄は玄界灘の向こうの中国の方角を向いて立っています。

宝満山の麓のこの地は最澄が遣唐船を待ったところ。
延暦22年(803)、難波津から唐に向けで出航した船は
瀬戸内で暴風雨に合って難破。
その後、1年を竈門山寺などで過ごしたそうです。
この像はそのころ、最澄が30代のときの姿ということ。

804年、最澄は唐に渡り天台山で天台教学を学び、805年に帰国。
そのとき最澄が到着したのは花鶴ヶ浜(古賀市)。
最澄は帰国後の布教の拠点となる場所を探すため、
持っていた独鈷と鏡を空へと投じました。
二神山(立花山)の山中でこの二品を探し求めていたところ、
地元の猟師と源四郎と出会います。
源四郎は最澄を独鈷の元へと導きます。
最澄は布教のため源四郎の家にしばらく滞在。
上洛する際、最澄は滞在のお礼に岩井の水(井戸)と
唐から持ち帰った法火と毘沙門天像を源四郎に授けました。

この源四郎の家は千年家として現在も残っています。
そして「法火」は今でもかまどの火種として燃え続けているのです。

追記:
法火は妙香庵へ「蓮華のともし火」として移されています。

■妙香庵
太宰府市内山384−8


ラベル:最澄
posted by Rino(ニックネーム) at 12:19| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ●妙香庵 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする