知人を案内して「人と木」で一休みしたあと向かったのは妙香庵。
「伝教大師尊像」(最澄像)を訪ねました。
ここに見えています。

え? どこ?

ここです。見えましたか?
さて、それでは近寄っていきましょう。
まず竈門神社を目指します。
突き当たりを左折、すぐにまた左折します。

見えてきましたね。5メートル80センチの青銅製。


駐車スペースもあります。
県道578線沿いにも妙香庵はありますが、そちらではありません。


昭和62年(1987)11月15日に建立された銅像です。
以前は青い色で塗られていましたが塗り替えられています。
最澄は玄界灘の向こうの中国の方角を向いて立っています。
最澄は比叡山を開いた高僧ですね。
宝満山の麓のこの地は最澄が遣唐船を待ったところ。
延暦22年(803)、難波津から唐に向けで出航した船は
瀬戸内で暴風雨に合って難破。
その後、1年を竈門山寺(そうもんさんじ/宝満山の麓にあったお寺)などで過ごしたそうです。
この像はそのころ、最澄が30代のときの姿ということ。

804年、最澄はついに唐に渡ります。
天台山で天台教学を学び、805年に帰国。
そのとき最澄が到着したのが花鶴ヶ浜(古賀市)。
最澄は帰国後の布教の拠点となる場所を探すため、
持っていた独鈷と鏡を空へと投じました。
二神山(立花山)の山中でこの二品を探し求めていたところ、
地元の猟師の源四郎と出会います。
源四郎は最澄を独鈷の元へと導きます。
最澄は布教のため源四郎の家にしばらく滞在。
上洛する際、最澄は滞在のお礼に岩井の水(井戸)と
唐から持ち帰った法火と毘沙門天像を源四郎に授けました。
この源四郎の家は今は千年家(せんねんや)
《横大路(よこおおじ)家住宅》(福岡県糟屋郡新宮町)
と言われています。
そして最澄が持ち帰ったという「法火」を守り続けていました。
805年からです。。。w(°0°)w
そしてその火を守る最後の人が亡くなった最近、
その火は、ここ太宰府に移されたのです。
そして今、蓮華(れんげ)のともし火と呼ばれています。

最澄像の下に置かれた両脇の灯籠の中で火は燃え続けています。
1200年前の火です。


気が遠くなるお話ですが、
この青年僧のなんとダイナミックな人生。。。
それにも増してすごいのが、
今にわたるまでその火を守り続けた人々がいたこと。。。

あたりは鷺も羽を休める静かな里山。
軽く平安の時代にタイムスリップできる太宰府で、
往時に心を飛ばしてみる、
そんなゴールデンウィークの過ごし方はいかがでしょう。
posted by Rino(ニックネーム) at 14:44| 福岡 ☁|
Comment(0)
|
●妙香庵
|

|