文化ふれあい館講座
九歴講座in太宰府
【大野城跡の修繕―白村江後の東アジア情勢の変化と大野城跡―】
講師:小澤佳憲さん九州歴史資料館
面白すぎました。この講座。
平成15年7月18日。太宰府は集中豪雨に見舞われた。
当時福岡市内に住んでいたわたしは実家に戻って驚いた。
四王寺山を見ると、崩れ落ちて地肌が剥き出しになっている箇所が見えた。
あそこにあったはずの樹木はいったいどこへすべり落ちたのかと驚愕した。
このとき四王寺山では400カ所山腹崩落や土砂崩れが発生したという。
そこで遺跡の修復計画が5カ年、のちに6カ年に変更され実施された。
その作業から新たな発見があった。
被災前、大野城の城門は南側の太宰府口、坂本口、水城口の3つ、
北側に1つとされていた。
ところが新たに南側に原口、観世音寺口、北側に小石垣、北石垣、クロガネ岩が見つかり、
今のところ城門の数は9カ所になったのだ。
さて、城門だが、門には扉を支える唐居敷という大きな石があり、
これには扉を回転させるための軸受穴が開いている。
これが円形と方形の2種あるという。南の城門には円形が多く、北の城門には方形が多い。
大野城は白村江で負けた倭国が敵が攻めてきたことを考えて水城を作り、
そして山の上に作った山城。
敵が攻めてきたら逃げこむ城と言われてきた。
新しい城門の発掘はこの説を覆すものだった。
円形と方形の軸受け穴の形式の違い、それは作られた時代の違いによるもの。
円形の城門が作られた当初は逃げ込むのが目的だった。
しかし北側に多い方形の城門が作られたころ、
大宰府政庁の建物が掘立柱から礎石を使う様式に変化するころは、
もう唐、新羅にに対する脅威は消え、
大野城が防衛の拠点から九州支配の拠点という内政のための城に変化していったのではということだ。
逃げこむためには大宰府方面とか坂本方面とか水城方面とか、
いくつかルートがあったほうがいい。
しかし北の城門は発想が違う。
ここはルートは宇美からの一本だけ。
その道が城内の倉庫跡に行くために分岐している。
その倉庫とは中央集権国家を形成してくために必要な米を蓄えていたもの。
大野城の礎石の上に建てられた倉庫群は、
海外との戦いに備えた防衛のためのものでなく、
国内を支配するために積極的に使うための倉庫だったのではないかという話。
北の新設された城門、それは中の倉庫へ米を運ぶための便利なルートだった!というのが小澤説。
たかが城門、されど城門。軸受け穴がもたらすミステリアスな考古学。
山の上に70棟もある立派すぎる倉庫群跡を目にしてきたわたしは、
この説にとても納得できた。
いつも家に帰るとき、吸い込まれるように戻っていく、この山裾。
この山は面白すぎる。
講義が終わったあと、見ず知らずのおとなりのご婦人と「面白い!」と行って、講義室を後にした。
posted by Rino(ニックネーム) at 16:58| 福岡 ☁|
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