
昨日九博で行われた宇美町&九博Presentsのmemoです。
四王寺山の麓で生まれ、今も暮らしていて、毎日見ている山。
この謎深い山についてのシンポです。
赤司善彦氏の基調講演ののち5人の専門家による発表、最後にパネルディスカッションがありました。
宇美町Presentsということもあり、一番パッションを感じたのは宇美町教育委員会学芸員の松尾尚哉氏の発表でした。
そもそも四王寺山の80%、つまりほとんどは宇美町の領域なのです。
その発表の中で最も興味深かったのが前田地区。
場所は県民の森近くの集落です。
ここからは「舘」銘墨書土器そして、なんと文様塼が出土しているということです。
この驚くべき貴重な資料は昭和52年から53年にかけて、
前田地区の斜面部から採集されました。
前田地区の北側には主城原地区には官衙風の3間☓7間の掘立柱建物が確認されていて、そこから続く前田地区にかけて、
役所の機能を持つ建物があったことが想像されるとのこと。
名前から城の主の原です。
さらに「太宰府旧蹟全図北図」には前田地区に「二ノ丸石スエ」と記されているのです。
ちなみに本丸は増長天地区、三ノ丸は主城原地区に記されています。
次に興味深かったのは土塁が外周だけでなく、内部にも構築されたのではないかということ。遠見処から村上礎石群へ向かう箇所に、
谷を塞ぐように土橋状の道があるからです。
集落の北東の水田からは羽子板状の石組み(古墳?)が出てきて、
現在その石組みは水田の脇に置かれているそうです。
また25日にニュースになったばかりの独鈷杵についても発表。
独鈷杵は密教の儀式に使われる法具。
平安時代後期11世紀末から12世紀初頭のものとみられ、九州では最古級。
昨年4月に発見したのは登山者。山頂付近に落ちていたとうこと?!
土中から動物が掘り出した可能性があるとのこと。
大野城築城後、774年には新羅の呪詛に対抗して四天王寺(四王院)が創建されます。
その後、平安時代前期、851年には智証大師円珍(後の天台座主)が、
唐へ渡る前に四王院に滞在しています。
平安時代後期になると多くの経塚が造営されます。
四天王寺とはどんな寺だったのか、ますます知りたくなります。
松尾さんの最後の言葉が印象的でした。
「大野城にはなにがあるか分らない。
歩けば歩くほど疑問が湧く。
追えば追うほど遠ざかる」
なんて、ミステリアスな山でしょう。
そんな山を毎日見て生きています。
posted by Rino(ニックネーム) at 13:28| 福岡 🌁|
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●大野城跡
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