2016年02月28日

シンポジウム「大城(大野城)の謎に迫る!」2016.02.27memo

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昨日九博で行われた宇美町&九博Presentsのmemoです。
四王寺山の麓で生まれ、今も暮らしていて、毎日見ている山。
この謎深い山についてのシンポです。
赤司善彦氏の基調講演ののち5人の専門家による発表、最後にパネルディスカッションがありました。
宇美町Presentsということもあり、一番パッションを感じたのは宇美町教育委員会学芸員の松尾尚哉氏の発表でした。
そもそも四王寺山の80%、つまりほとんどは宇美町の領域なのです。
その発表の中で最も興味深かったのが前田地区。
場所は県民の森近くの集落です。
ここからは「舘」銘墨書土器そして、なんと文様塼が出土しているということです。
この驚くべき貴重な資料は昭和52年から53年にかけて、
前田地区の斜面部から採集されました。
前田地区の北側には主城原地区には官衙風の3間☓7間の掘立柱建物が確認されていて、そこから続く前田地区にかけて、
役所の機能を持つ建物があったことが想像されるとのこと。
名前から城の主の原です。
さらに「太宰府旧蹟全図北図」には前田地区に「二ノ丸石スエ」と記されているのです。
ちなみに本丸は増長天地区、三ノ丸は主城原地区に記されています。
次に興味深かったのは土塁が外周だけでなく、内部にも構築されたのではないかということ。遠見処から村上礎石群へ向かう箇所に、
谷を塞ぐように土橋状の道があるからです。
集落の北東の水田からは羽子板状の石組み(古墳?)が出てきて、
現在その石組みは水田の脇に置かれているそうです。
また25日にニュースになったばかりの独鈷杵についても発表。
独鈷杵は密教の儀式に使われる法具。
平安時代後期11世紀末から12世紀初頭のものとみられ、九州では最古級。
昨年4月に発見したのは登山者。山頂付近に落ちていたとうこと?!
土中から動物が掘り出した可能性があるとのこと。
大野城築城後、774年には新羅の呪詛に対抗して四天王寺(四王院)が創建されます。
その後、平安時代前期、851年には智証大師円珍(後の天台座主)が、
唐へ渡る前に四王院に滞在しています。
平安時代後期になると多くの経塚が造営されます。
四天王寺とはどんな寺だったのか、ますます知りたくなります。
松尾さんの最後の言葉が印象的でした。
「大野城にはなにがあるか分らない。
歩けば歩くほど疑問が湧く。
追えば追うほど遠ざかる」
なんて、ミステリアスな山でしょう。
そんな山を毎日見て生きています。
posted by 理乃(ニックネーム) at 13:28| 福岡 🌁| Comment(0) | ●大野城跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月03日

大野城跡ウォーキング その8 水瓶山

大野城跡をぐるりと歩いたウォーキングのラストは
水瓶山でした。
太宰府口城門から太宰府天満宮に下る途中にある
標高210mの山です。

mizubeyama.jpg

ここはかつて雨乞いの場所でした。

9世紀、最澄が唐へ留学する前に立ち寄ったのが
宝満山のふもとにあった竃門山寺。
そこである日、水瓶山の方を見ると、
黒雲が沸き起こったので掘ってみると、
6個の瓶が出てきたそうです。
その年は大旱魃だったため、
最澄はその瓶に雨ごいの祈祷をしました。
すると雨が降り出したというのです。
それ以来、旱魃の際は
水瓶山で雨ごいの祈祷をするようになったということです。

さて、最後は水瓶山から
けもの道みたいな道を通って下りました。
最後の最後はロープにつかまって着地…。

毎日眺めて暮らしている四王寺山。
まだまだ足を踏み入れたことのない史跡がいっぱい。
追い追い機会を見つけて登ろうと思います。

(大野城跡ウォーキング 了)

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2008年06月01日

大野城跡ウォーキング その7 大宰府口城門

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焼米ケ原から下ってゆくと、
大宰府口城門の遺構が残っていました。

dazaifuguchi4.jpg

4か所にあった城門、
宇美口城門・大宰府口城門・坂本口城門・水城口城門の中でも
一番大きなもので、
正門であったと考えられています。

発掘調査の結果によると、
築造当初は掘立柱形式の城門だったそうです。
柱穴からはヒノキの柱根が検出され、
年輪年代法による分析により、
西暦628+α年という結果が出たということ。
すごいですね。科学は。

その後、奈良時代以降に
礎石建物の櫓門風の城門に建てかえられたそうです。

城門の改修の際に基壇に祀った
鏡・やりがんな・鋤先を模した地鎮具が
出土しています。

dazaifuguchi1.jpg
毘沙門天と書かれた鳥居もありました


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2008年05月31日

大野城跡ウォーキング その6 焼米ケ原

これまで四王寺山を訪れたときに
一番来ていたのが「焼米ケ原」でした。

眺めがよく、
広々としていて、とてもすてきな場所です。
土塁の様子もよく分かります。

yakigomegahara.jpg
左手に九州国立博物館が見えています。

「焼米ケ原」には倉庫が10棟建っていたといいます。
大野城では外的の攻撃に備えて
お米を貯蔵していました。
そのお米が炭化米として出るため
ここは「焼米ケ原」と呼ばれています。
探せば、
今でも炭化したお米を見つけることができるみたいですよ。
posted by 理乃(ニックネーム) at 12:14| 福岡 ☁| Comment(0) | ●大野城跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月30日

大野城跡ウォーキング その5 鬼の腰掛け

百間石垣から再び時計回りに大野城跡を進んでいくと
鬼の腰掛けと呼ばれている石がありました。

oninokoshikake.jpg

この岩には伝説があるそうです。
1月7日の太宰府天満宮での鬼すべのこと。
天満宮の鬼すべ堂では鬼が縛られ、
松葉でいぶされ、
引きずり回されてひどい目にあっていました。
その仲間の姿を見た鬼が、
この岩に腰掛けて、涙を流したと伝えられているのです。

優しい鬼ですね。

この伝説を聞いて、
「泣いた赤鬼」という大好きな童話を思い出しました。

日本のアンデルセンと呼ばれた浜田広介が書いた童話ですが、
このお話を思い出すたび、オイオイ泣きそうになってしまいます…。

人間と仲良くしたい赤鬼は鬼ということで恐がられ
避けられています。
仲間の青鬼は自分がわざと人間の村で暴れるから
退治して優しいところを見せてやれと言って実行します。
人間の理解を得て彼らに溶け込んだ赤鬼が
お礼に青鬼の家を訪ねると
張り紙がしてあり、
自分がいると誤解されるからとその家を去っていて、
もう二度と姿を現さなかったというお話です。

友だちを思いやり、自己を犠牲にする青鬼。
鬼とは何を象徴しているのか、
昔話に鬼が出てくると、
いつも考えてしまうのです…。



ラベル:大野城跡
posted by 理乃(ニックネーム) at 00:57| 福岡 ☀| Comment(2) | ●大野城跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月28日

大野城跡ウォーキング その4 百間石垣

毘沙門堂から野外音楽堂を通って、
次にたどり着いたのが北にある百間石垣(ひゃっけんいしがき)でした。

mitishirube.jpg

yagaiongakudo1.jpg
野外音楽堂
(※ここで野外コンサートが開かれた話は聞いたことがありませんが…)

hyakken4.jpg

百間石垣。
今回の大野城ウォーキングで
一番感嘆した遺跡でした。

hyakken5.jpg

hyakken3.jpg

hyakken2.jpg

大野城は尾根部分に土塁を築き、
谷間の部分には石垣を築いていますが、
百間石垣は最長の石垣です。

目の前に現れたとき、
その規模に驚きました。
(今回の写真は申しわけありませんが、
規模が表現できていません)
長さが約180m、高さが60mもあります。
一間は1.8m。百間で180mというわけです。
石は花崗岩。
上の部分から下へ降りていったのですが、
その小道の急峻なこと!

下から見上げれば、
巨大な石の壁がそそり立っていて、
圧巻です!

hyakken1.jpg

過去に水害で被害を受けていますが、
補修されています。
1300年も保っているということは
災害を受けるたびに守ってきた人たちがいたということです。

水害の際、礎石が発見されましたが、
この場所ではなく、宇美八幡宮と県民の森センターに置かれているようです。

大野城跡を訪ねて歩くなら、
ここは見逃せないスポットです。
1300年も昔の土木工事に思いを馳せてみてくださいね。

※百間石垣は車道沿いにあるので、
車でも訪ねやすいと思います。


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posted by 理乃(ニックネーム) at 12:57| 福岡 🌁| Comment(0) | ●大野城跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月27日

大野城跡ウォーキング その3 毘沙門堂・大城山

bisyamonten1.jpg

四王寺33ヶ所石仏 第26番札所から
さらに先に歩いていくと毘沙門堂があります。

bisyamonten2.jpg

bisyamonten.jpg

(※残念ながら毘沙門堂は鳥居の一部しか撮る余裕がありませんでした…。
そのうち出直して撮ってきます)

もともと大野山と呼ばれていたこの山に
奈良時代(774年)、新羅に対抗するため四天王寺が建てられました。
そのため大野山は四王寺山と呼ばれるようになりました。

四天王寺の跡に隣接した地にあるのが
この毘沙門堂です。
1月3日、毘沙門堂では毘沙門天詣りが行われます。
毘沙門天詣りには変わった風習があります。
お賽銭を借りて持ち帰り、翌年、倍にして返すのです。
そうすれば商売繁盛すると伝えられています。

毘沙門堂から30メートルほど進むと、
四王寺山の最高峰、大城山(410メートル)に着きました。

okiyama.jpg

三角点があるばかりで眺望はよくありません。

ogiyama2.jpg

でも周囲に転がっている石が気になります。
何かの跡に違いありません。
ここは最も高い所なのです。

今は樹木に覆われていますが、
大野城が出来たころは遠く博多湾まで見えていたのでしょう。
調べてみると烽火台の跡かもしれないということ。

最近『エリザベス ゴールデン・エイジ』という映画を見たときに、
イギリス沖に現れたスペインの無敵艦隊を知らせるために
次々にのろしを上げていましたが、
あの光景を思い出しました。

白村江の戦いで破れ、
必死で防衛しようとしていた当時の政権…。

くずおれた石たちは何かを語りかけてくるのです。
この石にもたれて、
遠国から連れてこられた若き防人が
博多湾の彼方を見やっていたのかもしれません。
故郷の愛する人々を思いながら…。

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2008年05月25日

大野城跡ウォーキング その2 四王寺33ヶ所石仏 第26番札所

水城口城門から大野城跡を時計回りに歩いていくと、
四王寺33ヶ所石仏 第26番札所があります。

26ban4.jpg

1800年に大野城の土塁線に西国観音霊場の霊土が埋められ、
33体の観音石仏が祀られたといいます。

ここからの眺めは最高!
眼下には水城、
右側を見ると、福岡ドーム、博多湾まで見ることができます。

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写真中央左寄りが水城

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水城をアップ

水城をこんな高い位置から真下に見下ろせるのはここだけ。
今は周囲の開発によって姿を変えた水城ですが、
7世紀に築かれたばかりの頃の水城は
堀に水を湛え、大地を分断していたのです。
なんという大規模な土木事業でしょう。
そのさまを、百済から亡命してきて、
天智天皇の命により大野城を築いた
憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)は
この場所から見下ろしていたことでしょう。

滅びた自国を逃れ、
異国で防塁を築いた人たち。
その名前には耳慣れない不思議な響きがあります。
その生涯とはどういうものだったのでしょうか。
今はただ、この山に残る遺跡が語りかけるのみです。
ラベル:大野城跡
posted by 理乃(ニックネーム) at 23:58| 福岡 ☀| Comment(2) | ●大野城跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月24日

大野城跡ウォーキング その1 水城口城門礎石

大野城跡(あと)をぐるりと回るウォーキングに参加しました。
何分体力がありませんので、
例のごとく、ついていくだけで精一杯ではありましたが…。

663年、白村江の戦いに敗れた大和政権は
博多湾から唐・新羅が侵入してくることを想定し、
太宰府に至る平野の一番狭まった所に水城を、
そののち大野山(現四王寺山)に朝鮮式山城を築きました。
今もまだ、その7世紀の痕跡が残っているというわけです。

日本書紀の記載です。
「天智四年(665)、…達率(だっそつ:百済の貴族の官位)憶礼福留(おくらいふくる)、
達率四比福夫(しひふくふ)を筑紫国に遣はして、
大野および椽(きい)の二城(ふたつのき)を築かしむ」

大野城とはどのようなものだったのでしょう?
城といっても天守閣や櫓、濠などはありません。
それは百済人の技術を用いて造られた山の地形を利用した「城(き)」だったのです。

山の尾根線上には土塁を、谷間には石塁を築き、
その総延長は8キロメートル余り。
一部は二重になっています。
ぐるりと回るだけでも2時間かかります。

城門は4か所にありました。
宇美口城門・太宰府口城門・坂本口城門・水城口城門です。
今残っているのは門柱(もんちゅう)の礎石だけです。

大野城跡にはいろんな登り道がありますが、
今回は水城口城門へと至る国分寺の奥の国分道が選ばれました。

約400メートルの高さまで、尾根をひたすら登っていきます。
水城口城門にたどり着くと、
そこには2つの礎石が残っていました。

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古代、ここには門番がいて、
門を開けて城の内側へと入っていったのですね。
ギイと音を立てて開けられた門…。
その門を作った労働者は
どこか遠くから連れて来られた人たちだったのでしょうか?
ラベル:大野城跡
posted by 理乃(ニックネーム) at 23:33| 福岡 ☔| Comment(2) | ●大野城跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする