昭和23年頃〜昭和31年頃まで連歌屋に住んでらっしゃった
Tさんから伺った話の覚書、その2です。
だざいふ遊園地のあった場所は湿地帯だった。
相撲の土俵があった。
お石茶屋の奥には吊り橋があった。
↓
【これはわたしもかすかな記憶があります。
もっとのちなってからの記憶ですが…。
あの吊り橋はいったいいつなくなったのでしょう?
そしてどこからどこへ渡るための吊り橋だったのでしょう?】
境内にはタンチョウ鶴がいた。
太宰府の人は梅ヶ枝餅とは言わず、
やきもちと言った。
当時梅ヶ枝餅を5個頼むとすると、
5個のほかに山盛りの餡子が付いてきた。
正式の食べ方は1個の梅ヶ枝餅に
この付いてきた餡子をのせて食べるというものだった。
当時の梅ヶ枝餅は1個5円だった。
持ち帰りは竹の皮に包まれていた。
鬼すべは連歌屋の四つ角でも
火を燃やしていた。
ps.
扁桃腺炎で高熱を発し、
未だ回復せぬまま、
とりあえず伺ったことを忘れないうちにとメモした次第の
文章となっております…。
(高熱とともに読みふけって完読した
「暗黒館の殺人」なる奇書についても書きたいと思えど、
もう体力が…)
2008年10月19日
2008年10月18日
追憶の太宰府 Tさんからの聞き書き その1
ライフワークにしたいと思っているものの1つに
太宰府の古い時代の聞き書きがあります。
最近、昭和23年頃から昭和31年頃まで連歌屋に住んでらっしゃった
Tさんに偶然巡り合い、
古いお話を少し聞けましたので、
ご紹介します。
下記地図の!マークの位置には当時お風呂屋さんがありました。
お風呂屋さんの右隣には材木屋、米屋があったそうです。
お風呂屋さんの向かいには平島自転車、
その左隣には洋服屋さん。
黄色の道を挟んだ向かいには煙草屋。
浦の城橋の袂には豆腐屋があったそうです。
黄色の道は当時進駐軍の戦車も通って行きました。
宇美に米軍関係の施設があったらしく、
そこへ向かっていたということです。
またこの道は木炭バスも通っていました。
馬車も通り、
道には糞が落ちていました。
当時は岩踏川の水もきれいで、
おばちゃんたちは岩の上で洗濯をし、
子どもたちは泳いでいたということです。
太宰府の古い時代の聞き書きがあります。
最近、昭和23年頃から昭和31年頃まで連歌屋に住んでらっしゃった
Tさんに偶然巡り合い、
古いお話を少し聞けましたので、
ご紹介します。
下記地図の!マークの位置には当時お風呂屋さんがありました。
お風呂屋さんの右隣には材木屋、米屋があったそうです。
お風呂屋さんの向かいには平島自転車、
その左隣には洋服屋さん。
黄色の道を挟んだ向かいには煙草屋。
浦の城橋の袂には豆腐屋があったそうです。
黄色の道は当時進駐軍の戦車も通って行きました。
宇美に米軍関係の施設があったらしく、
そこへ向かっていたということです。
またこの道は木炭バスも通っていました。
馬車も通り、
道には糞が落ちていました。
当時は岩踏川の水もきれいで、
おばちゃんたちは岩の上で洗濯をし、
子どもたちは泳いでいたということです。
2008年03月02日
かつてあった太宰府駅前の歌碑
かつて西鉄「太宰府」駅前にとても立派な
灯籠形の歌碑がありました。

上の方に梅のデザイン。
四面に歌が書かれています。
1つ目は菅原道真。
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ」
2つ目は大伴坂上郎女。
「今もかも 大城の山に ほととぎす
鳴きとよむらむ われなけれども」
3つ目は仙香B
「烟たつ かまどの山の 緋桜は
香飯の国の 贈る春風」
4つ目は夏目漱石。
「反橋の 小さく見ゆる 芙蓉かな」
*歌の選定は森弘子先生。
歌の向きも仙高ウんだと宝満山の方向など、
それぞれの内容に合わせてありました。
灯籠形の歌碑がありました。

上の方に梅のデザイン。
四面に歌が書かれています。
1つ目は菅原道真。
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ」
2つ目は大伴坂上郎女。
「今もかも 大城の山に ほととぎす
鳴きとよむらむ われなけれども」
3つ目は仙香B
「烟たつ かまどの山の 緋桜は
香飯の国の 贈る春風」
4つ目は夏目漱石。
「反橋の 小さく見ゆる 芙蓉かな」
*歌の選定は森弘子先生。
歌の向きも仙高ウんだと宝満山の方向など、
それぞれの内容に合わせてありました。
ラベル:梅