2023年06月17日

百間石垣

宇美から太宰府へ行くには四王寺山の東西を通る道とともに、
山を縦断する道があります。
昨日は久しぶりに縦断ルートを通りました。
ここの前ではやっぱり車をとめずにいられません。

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665年に築かれた古代山城跡。
180メートルもの石垣は壮観そのもの。
7世紀に1年という短期間で成し遂げた古代土木事業です。

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2023年02月07日

日本経済大学吹奏楽部

昨日、日本経済大学吹奏楽部の演奏を聴く機会がありました。

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優れた指揮者を迎えると、演奏は輝きを放つと思いました。
たった4年でここまで成長するものなのですね。
キレのある演奏は今や太宰府の宝の一つ!
多くの方が聞く機会があればと祈ります。
ブラボー!!
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2022年08月20日

大伴部 博麻(おおともべ のはかま)

今日の「語る会」で一番気になったのは
筑後国出身の兵士、大伴部博麻のお話。

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663年の白村江の戦いに先立つ661年。
博麻は百済救援の役(えだち)で東軍の捕虜となりました。
長安へ送られると、遣唐使で捕虜になっていた
土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ、)、
筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、
弓削連元実児(ゆげのもとさねこ)がいました。
664年、唐が日本侵略を企てているという知らせを聞いた博麻は、
倭国に知らせたいと富杼らに相談し、
自らの身を奴隷として売って仲間四人の帰国の資金としました。
四人は671年に帰国。
30年経った、690年に博麻は新羅使に連れられて帰国しました。
持統天皇は博麻を称え、官位と報償を与えたそうです。
大伴部博麻の出身地、星野に墓であるかもしれない遺跡が残っているとのこと。
それはチンの姥塚。
ここからは時代を同じくする唐の海獣葡萄鏡と
和製の海獣葡萄鏡が出土しているのだそうです。
気の遠くなるっほどタイムスリップした時代の捕虜生活。
白村江の戦争ではほかにも多くの悲劇が存在したことでしょう。
次に星野に行ったらチンの姥塚にも寄ってみたいと思います。

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久留米城址内の大伴部博麻の石碑
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2021年05月31日

開運の道

天拝山の登山道として最も利用されている開運の道。
ハイキングのような軽装でも登れる道で、人気のコースです。
八合目までは道幅も広い緩やかな坂道が続きますが、
そこからは436段の階段が待っています。

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筑紫野市観光協会は2009年に創立50周年記念で
開運の道沿いに道真公の歌碑を建立しました。
起点から九合目まで10基あります。

・起点
「寝ても又 覚めても辛き 世の中に 
有る甲斐もなき 我住居哉(わがすまいかな)」
寝ても覚めても辛い世の中で生きているかいもないのに、
わたしは生きているよ。

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・一合目
「憂しといふ 世に住みながく 露の身の
 消てはかなき 身をややつさん」
憂鬱な世に長く住んだ私、
この身は露のようにはかなく消えるもの。
身を露に変えたいものだ。

・二合目  
「とらば手に 溜まりもやせん 秋の夜の 
草葉の露に 寝る月影」
とってみても手に溜まりはしない。
秋の夜の草葉の露に寝そべる月影は。

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・三合目  
「憂き事の 夢になり行く 世なりせば 
いかで心の 嬉しからまし」
憂鬱なことが夢になる世だったら、
どんなに嬉しいだろうか。

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・四合目  
「薫(た)くまゝに 霞の衣 重ね着て 
花の紐をば いつか解べく」
香をたきこめた霞の衣を重ねて着ても、
花の紐はいつか解けるだろう。

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・五合目  
「生れきて 世に墨染めの 袖ならば 
心を知れや 法(のり)のしるしに」
生まれてきて、この世に黒染の袖をとおすあなたなら、
私の心を知るでしょう。仏道のしるしに。

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・六合目  
「さるからに 心細くも 聞ふるは 
山より奥の 入合(いりあい)の鐘」
心細く聞こえるのは、山の奥の日暮れの鐘。

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・七合目  
「鶏の音に 夢打ち覚めて 独り寝る 
其暁は 物憂かりけり」
鶏の鳴き声に夢から覚めた。
一人寝ていた暁は物憂いことだ。

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・八合目  
「戌(いぬ)桜 先咲初(まずさきそめ)て 
山里の 木末に匂ふ 衣更着(きさらぎ)の比(ころ)」
戌桜がまず咲き始めて、山里の梢に匂う。
如月のころ。

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・九合目  
「いつまでか 花の契りの 深からじ 
去年(こぞ)を今年に 思ひ合せん」
いつまでも花の契りは深くはない。
去年を今年に思い合わせれば・・・。

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「開運の道」の和歌も「天神さまの径」同様、
悲痛で物憂い心情を詠ったものばかりです。

*現代語訳は感覚で訳しているだけなので、
参考にされないでください。
ラベル:開運の道 道真公
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2021年05月30日

天神さまの径(こみち)

御自作天満宮の左手から天拝山に登る道は
「天神さまの径」と名付けられています。

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天拝山社まで1025m。

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約100メートル間隔で道真公の歌碑11基が建てられています。
筑紫野市商工会、観光協会が中心となって1997年に完成。
起点の和歌は有名な
「東風(こち)ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」(拾遺集)

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1合目から頂上までは太宰府謫居に詠んだ歌で「聖廟御集」に収まれている21首のうちの10首です。
1合目  
「谷深み 春の光の おそければ 雪につつめる 鶯の声」(新古今集)
谷が深く春の光の訪れも遅いので、うぐいすの声も雪に包まれている。

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2合目
「夕されば 野にも山にも 立つけぶり なげきよりこそ 燃えはじめけれ」(大鏡)
夕方になると、野にも山にも煙がたちのぼる。私の嘆き(投げ木)で燃え始める。
3合目
「天の下 かはけるほどの なければや 着して濡衣 ひるよしもなき」(大鏡・拾遺集)
天の下に乾いているところがないからか、無実の濡れ衣も乾かしようがない。
4合目  
「つくしにも 紫生ふる 野辺はあれど なき名悲しむ 人ぞ聞えぬ」(新古今集)
筑紫にも紫草の生えている野辺はあるけれど、私の名を悲しんでくれる人のことは耳に入らない。
5合目
「足曳きの あなたこなたに 道はあれど 都へいざといふ 人ぞなき」(新古今集)
あちらにもこちらにも道はあるけれど、都へ行こうと言ってくれる人はいない。
6合目  
「刈萱の 関守にのみ 見えつるは 人もゆるさぬ 道べなりけり」(新古今集)
誰もが刈萱の関守りにしか見えないのは、どの人も許さぬような道だったからだ。
7合目  
「草場には 玉と見えつつ 侘び人の 袖のなみだの 秋の白露」(新古今集)
草の葉であったら玉に見えても、世をはかなんで暮らす人の袖では涙だ。秋の白露は。
8合目  
「かりがねの 秋なくことは ことわりぞ 帰るはるさえ なにか悲しき」(後撰集)
雁が秋に鳴くのはもっともだ。ふるさとに帰る春になっても鳴いているのは何が悲しいのだろうか。
9合目  
「道の辺の 朽木の柳 春くれば あはれと昔と 忍ばれぞする」(新古今集)
道の辺の朽ち木の柳は春が来れば、昔はさぞ美しかったのであろうとしのばれる。
頂 上  
「天つ星 道も宿りも ありながら 空にうきても 思ほゆるかな」(拾遺集)
天の星のように道も宿もありながら、空に浮かんでいるかのように思えるよ。
無実の罪をきせらて謫居する自らの境遇を重ね合わせた哀しい歌ばかりです。

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2021年05月29日

御自作天満宮

武蔵寺の左手にある御自作天満宮。

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道真公が武蔵寺に参詣されたとき、
自ら像を刻んだといわれ、御神体となっています。
1586年、九州制覇を目論む薩摩の島津勢は
武蔵村、武蔵寺、天拝山に火を放ち、
筑紫広門の端城の天判山城、飯盛城などを攻略。
このとき森の天神と呼ばれていた
道真公が像を刻んだ場所にあった祠も兵火に煽られ、
社僧や村人がやっとの思いで
御神体の首部だけを持ち出しました。
元禄年間に黒田藩の武蔵領主であった
立花増弘(たちばなのますひろ)が仏師に命じて体部を作り、
焼け残った首部と合わせて社殿を再建して納めました。
その後、再び出火。
今の社殿は1883年に現在の場所に移して再建されました。

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設計は当時、県の建築業界を牽引し、
福岡公会堂貴賓館や太宰府天満宮楼門などを設計した
福岡県土木建築技師の三條栄三郎(さんじょうえいさぶろう)です。
*ちくしの散歩HP参照
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針摺石

西鉄朝倉街道駅近くの住宅街の中にある
「針摺石(はりすりいし)」。

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小さな社殿の奥の一番右側の高さ2メートル余りの自然石です。

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針摺石

石には阿弥陀三尊を表す梵字が刻まれていて
観音として信仰を集めてきました。
この石に伝わる伝説があります。
天判山(天拝山)に無実の罪を晴らすために登った道真公が
ここを通ると、
一人の翁が斧を石にあてて一生懸命摺っていました。
不思議に思った道真公が
「何をしているのか」と尋ねると、
「この斧を摺りへらして針を作っているのです」
と答えました。
道真公はこれに驚いて、
何事も努力すれば成就できるものと悟り、
再び天判山に引き返して祈ったいわれています。
「筑前国続風土記」にも描かれていて、
山の麓にあったものを、
近世になって道路のそばの林の中に移したとあります。

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針摺石側面。
何かで摺ったような形にも見えます。

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*「ちくしの散歩」参照
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2021年05月28日

2021.5.25 天拝山社

天拝山山頂にある「天拝山社(てんぱいざんしゃ)」は
太宰府天満宮の摂社で、御祭神は菅原道真公です。

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鎮座は907年のこと。
これまでに幾度か改装や修繕が行われたと記録にありますが、
現在の社殿は2001年に御神忌千百年大祭を記念して
全面改築されたもの。
本殿は流造でひのきが使われています。
社殿右手の階段を上ると、そこは展望台。

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博多湾から春日、大野城、太宰府、
筑紫野と続く地形が眼下に広がり爽快です。
四王寺山の裾野に見える大宰府政庁跡。
道真公は入ることも許されなかった政庁を
ここから見ていたのでしょうか。

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*太宰府天満宮社報「飛梅139号」参照
ラベル:天拝山社
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2021年05月24日

紫藤の滝

道真公が天拝山に登って無実を訴えるため
身を清めたとされる紫藤(しとう)の瀧は
今もなお見ることができます。

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武蔵寺の山門から左に入ったところです。
注連縄が張られた高さ2メートル余りの滝。

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道真公が百余日この滝に打たれて
身を清めたという伝説が残っています。
滝の左にある石は禊の際、
道真公が脱いだ衣を掛けたという衣掛の岩。

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滝の右には古石塔があり、
台石には漢詩が彫られています。

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「天判峯頭仰彼蒼(てんぱんほうとうひそうをあおぐ) 
願心成満放威光(がんしんじょうまんいこうをはなつ) 
御衣薫石変成塔(ぎょいくんせきへんじてそうとなる) 
五百年来流水香(ごひゃくねんらいりゅうすいかおる) 
正平二十年(1365)二月二十五日 
願主 大僧都信聡 謹題」。
信聡(しんそう)は太宰府天満宮ゆかりの僧侶だったということです。

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2021年05月21日

鍬の柄橋

筑紫野市紫の高尾川に架かる橋「鍬の柄橋」。

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この橋は道真公の伝説から名付けられています。

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「無実の罪を晴らすため
天拝山に上って祈っていた道真公。
ある日高尾川にさしかかったとき、
橋がなくて渡れず困っていました。
その時、通りかかった農夫が
鍬の柄を差し出して橋の代わりにしてくれました」
という伝説です。

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小さな橋で気づく人も少ないかと思いますが、
取り付けられた橋の名前のプレートが
伝説を伝えてくれます。

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*筑紫野市HP参照
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2020年07月15日

「日本書紀の時代の筑紫」@福岡市博物館

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福岡市博物館で開催されている
「日本書紀の時代の筑紫」展を見てきました。
日本書紀はなんと1300年も前に完成した歴史書。

お目当ては「志賀海神社縁起絵(しかうみじんじゃえんぎえ)」。
三幅からなりますが、展示はそのうちの一幅のみ。
神功皇后の新羅征討にまつわる説話が描かれています。
阿曇磯良丸(あずみのいそらまる=志賀海神)も描かれていたり、
興味深いもの。
制作時期は蒙古襲来の余韻が覚めない鎌倉時代末から南北朝時代とのこと。
展示は7月19日(日)まで。
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2018年12月08日

関屋土塁&とうれぎ土塁

基山の関屋土塁&とうれぎ土塁を見に行く機会がありました。
案内はM氏。
基肄城の南東、鳥栖、久留米から太宰府へ抜ける場所にある2つの土塁です。
両方とも大宰府を防衛するために小さな谷を塞いだ「小(しょう)水城」と呼べるもの。
3号線沿いの関屋土塁(上町交差点脇)はほとんど痕跡がありません。

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関屋土塁

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関屋土塁説明板

とうれぎ土塁(玉虫交差点喫茶千秀隣)はなんとか高まりが残っています。

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とうれぎ土塁

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超マイナーな史跡。

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一人ではなかなか行けないところでした。
おかげで歴史の勉强のとき、
関屋土塁ととうれぎ土塁のイメージを持てるようになりました。
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2017年01月10日

森の天神跡地

武蔵寺そばのおそばやさん「一作」。
その敷地内に森の天神跡地という碑が建っているのに気づきました。

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かつてここには5〜6mの小高い森がありました。
この地で菅原道真公は自らの木像を彫ったということです。
そのため、森の天神と呼ばれていましたが。平成11年に平地にされました。
ここにあった祠は武蔵寺の左手の御自作天満宮に移されました。
道真公の木像は安土桃山時代に島津軍が侵攻してきた際、
頭部を残し焼失しました。
後に橘氏が復元し、御自作天満宮の御神体として安置されています。
御開帳は1月、4月、10月の25日となっています。

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2017年01月04日

谷保天満宮

東京都国立市、甲州街道沿いに谷保(やほ)天満宮があります。
創建は903年(延喜3年)。
この天満宮は道真公の三男道武が
父を祀る廟を建てたことに由来するそうです。
道真公に道武という息子は存在しないようなのですが、
父が左遷されたときに同じく流刑されたのでしょうか?
谷保天満宮では、やはり梅の木が美しい花を咲かせるとのこと。
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2016年03月07日

大宰府政庁の前身、筑紫宮家

南区へ行ったので、近くの神社へ寄ってみることにしました。
若宮八幡宮といいます。
ただ若宮八幡宮を訪ねたつもりだったんです。

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ところが鳥居の向こうに
「筑紫宮家跡(つくしのみやけあと)」って説明板が立っていました。
え??
ここが?
ちょっとびっくり。
6世紀の初め、大和朝廷は北部九州の豪族、磐井(いわい)の乱を抑えました。
その後の拠点としてつくったのが宮家。
南区には三宅(みやけ)という地名が残っているので、
ここがその宮家ではないかといわれているのです。
でも、遺跡や遺物は確認できていません。
一方、博多区の比恵遺跡からは倉庫群が発見されていて、
そちらの方が宮家跡ではとする説が有力視されています。
大宰府政庁の前身の筑紫宮家はいったいどこにあったのか??
うーむ。気になります。

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この地は今は若宮八幡宮になっています。
本殿の梁を支えている金色のこのお方はだれなのかしら??

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こちらも気になります。
 ※参考/若宮八幡宮境内案内板
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2015年12月03日

博多寶照院大黒天像ご開帳

以前から訪れてみたいと思っていた博多寶照院大黒天像ご開帳。
本日仕事帰りに立ち寄ることができました。
この大黒天像が見られるのは年に二日だけ。
大黒天像は最澄の作と伝えられ、かつては宝満山にあったもの。
大雪で山中に閉ざされた行者たちに塩をもたらしたという伝説が残っているそう。
近づくと旗が立っていました。

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このあたりは戦争で焼けなかったということ。
なんともいい感じです。

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お堂に入り、やっと大黒天像とご対面。

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黒光りして、なんともよいお姿です。

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クスノキの一本作り。
虫食いの穴と割れもありますが、
これまで見たどんな大黒天とも違います。
ふくぶくしく、どっしりして、いつまでも見ていたい気になりました。
700円の福引は参拝者が引くと、太鼓を鳴らして景品の名を言います。
威勢がよく気持ちがいい。
わたしもやってみました。小判が出ました。

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小判は100本に1本しかないということでした。

参拝が終わると右手の喫茶店でぜんざいをいただけるご接待がありました。

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博多のぜんざいは甘く、黄色いてんこ盛りたくわん付き。これですね。

中に入るとご住職がいらっしゃって、お話を聞けました。
元々寶照院は百段がんぎの右奥にあった奥の坊だったということ。
そして御住職こそ、宝満山の護摩焚きで問答をされていた方なのでした。
明治の廃仏毀釈で宝満山を去ったあと糸島に寶照院を作り、
その後博多で途絶えていた智楽院に呼ばれて移ってきたのだそう。
では智楽院のご本尊は?と問えば、それは秘仏で公開しないとのこと。
わずか6.5cmの北辰妙見大菩薩像。
お写真を見せていただきましたが、そんなに小さいとは思えない精巧なものでした。

大黒天像は12月2日と3日のみのご開帳。
次に見られるのは一年先のことですが、
ぜひ一度お出かけください。
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2015年07月11日

菅公伝説〜鍬の柄橋

7月25日の「太宰府伝説の旅」のイベントが近づいています。
そこで今日も伝説の地を一つ、撮影してきました。
筑紫野市紫の高尾川に架かる小さな橋です。

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ではこの橋にまつわる伝説をご紹介します。

「無実の罪を晴らすため天拝山に上って祈っていた道真公。
ある日高尾川にさしかかったとき、
橋がなくて渡れず困っていました。
その時通りかかった農夫が鍬の柄を差し出して橋の代りにしてくれました」

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分かりづらいと思いますので、太宰府方面からの行き方も。
3号線を高尾交差点で右折。
県道65号を二日市に向かって進むと、左手にセブン-イレブンがあります。
その先に西尾産婦人科医院があります。
その先は三叉路になっているので、一番左の道へ進みます。
すると高尾川があり、そこに架かる小さな橋が鍬の柄橋です。
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2015年07月07日

鯰石

7月25日に開催される太宰府伝説の旅のモチーフの一つなので、
鯰石を撮影してきました。

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その伝説とは。。。標識にはこんなふうに書かれています。

「昔このあたりは葦が生い茂る沼地でした。
あるときここを通りかかった道真公は大鯰に道を妨げられます。
道真公が腰の刀を抜き取ると、大鯰の体は頭と胴体と尾の三つの石になって飛び散りました。」

胴体の部分がこの巨石。
普通の民家にあります。
やっぱりどきっとする光景ですね。
じゃ、頭と尾は?
頭は向かい側の崖の急斜面に、
尾は民家の庭先にあるらしいです。

さて、探すのは超難関でした。
このあたりかなという勘だけで行くのでなおさら。。。
でも見つけました。車で行けます。
行き方を記しておきましょう。場所は筑紫野市になります。
太宰府から行くと、3号線高雄の交差点、グッデイを二日市方面に向かい
ファミリートの右の筋に右折して入ります。
一軒家のゆき美容室が左にあるので、
そのまままっすぐ森をめがけて進みます。
その森の下の民家にあります。
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2015年01月30日

高橋紹運の首塚

前回の紅姫供養塔のあと、
高橋紹運の首塚も案内していただきました。

以前、やっぱり案内していただいたことがあるのですが、
団体のコースだったので、その後自分一人で行くことはできませんした。
今回、やっと場所を把握しました。

さて、高橋紹運(じゅううん)とは?

時は戦国時代、
天正14年(1586年)に島津方に攻められて落城した岩屋城の城主です。
7月14日、島津軍は般若寺跡を本陣として岩屋城の攻撃を開始。
島津軍勢は4万とも5万とも言われています。
それに対する高橋勢はわずか七百六十余名。
7月27日。岩屋城で粘っていた高橋軍もついに敗北を悟り全員が討ち死にしました。
なんとむごい。
今、政庁後からも見える岩屋城跡はそんな惨劇の跡でもあるのです。
紹運の墓は城跡からすぐ下にさがったところにあります。

でも首は般若寺跡に本陣を置いた薩摩勢が首実検を行い、
そこにそのまま葬られています。
討ち取った島津軍の大将、忠長も敵ながらあっぱれと、その死を悼んだということ。

さて、首塚のある場所もたいへんわかりにくいです。

20150128高橋紹運首塚_2_1.jpg

南体育館近くの坂道を上っていきます。

20150128高橋紹運首塚2_1.jpg

え、こんな道をってところを進みます。

右手に出てきます。

20150128高橋紹運首塚5_1.jpg

戦国の花と言われた紹運。
でも首塚は人知れぬ場所にあるのです。

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posted by Rino(ニックネーム) at 20:05| 福岡 ☁| Comment(0) | ●太宰府市外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月28日

紅姫供養塔はどこ?

今日は紅姫供養塔を探しに行きました。
場所は太宰府市立南体育館の近くということしか分かりません。

20150128南体育館_1.jpg

とりあえず、周囲を探してみます。
見当たりません。
人に尋ねようにも歩いている人がいない。。。

近くにお店があったので入って尋ねてみました。
知らないけど近くで見たような気が。。。とおっしゃるので
そのあたりを探してみます。
やっぱり見つからないので、今度は民家の軒先にいた住人の方に尋ねます。
中にいらした奥さままで呼び出して聞いてくださったのですが、
分からないということなので市の施設の方に尋ねたらとアドバイスを受け、
また歩き始めます。
このあたり市の施設がいろいろ集中しているんですね。

20150128保育所_1_1.jpg

南保育所です。

20150128南児童館_1_1.jpg

太宰府市立南児童館です。
入って尋ねてみました。
すると助っ人登場!
知っているので案内してくださるということ!
しかも三人も。。。。

20150128すけさんかくさん_1_1.jpg

え?ここ?
分からないはずです。

とてものっぽなマンションが建っていて、
紅姫の供養塔はもともとそこにあったのだそうです。
そしてマンション建設と共に近くに移されたということ。

マンションの左手の道を左折すると公園がありました。

20150128紅姫供養塔2_1_1.jpg

右の祠が供養塔です。

20150128紅姫供養塔_1_1.jpg

ここで紅姫のご説明。。。

菅原道真公は一人で太宰府に来たわけではありません。
二人の幼子といっしょでした。
息子の隈麿(くままろ)と娘の紅姫です。
翌年隈麿は病気で亡くなり、その墓は榎社の近くにあります。
隈麿に次いで翌年、道真公も亡くなってしまいます。
残された紅姫がその後どうなったかはよく分かっていないようです。
一説には土佐に流された道真の長男、高視の元に向かったと言われています。
一人残された紅姫を哀れんで、この供養塔は建てられたのでしょうか。。。

紅姫供養塔はここのほかにもう一つあります。
榎社の社殿裏です。

★紅姫供養塔はこちら

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posted by Rino(ニックネーム) at 17:03| 福岡 ☁| Comment(0) | ●太宰府市外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする