2017年01月10日

森の天神跡地

武蔵寺そばのおそばやさん「一作」。
その敷地内に森の天神跡地という碑が建っているのに気づきました。

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かつてここには5〜6mの小高い森がありました。
この地で菅原道真公は自らの木像を彫ったということです。
そのため、森の天神と呼ばれていましたが。平成11年に平地にされました。
ここにあった祠は武蔵寺の左手の御自作天満宮に移されました。
道真公の木像は安土桃山時代に島津軍が侵攻してきた際、
頭部を残し焼失しました。
後に橘氏が復元し、御自作天満宮の御神体として安置されています。
御開帳は1月、4月、10月の25日となっています。

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2017年01月04日

谷保天満宮

東京都国立市、甲州街道沿いに谷保(やほ)天満宮があります。
創建は903年(延喜3年)。
この天満宮は道真公の三男道武が
父を祀る廟を建てたことに由来するそうです。
道真公に道武という息子は存在しないようなのですが、
父が左遷されたときに同じく流刑されたのでしょうか?
谷保天満宮では、やはり梅の木が美しい花を咲かせるとのこと。
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2016年03月07日

大宰府政庁の前身、筑紫宮家

南区へ行ったので、近くの神社へ寄ってみることにしました。
若宮八幡宮といいます。
ただ若宮八幡宮を訪ねたつもりだったんです。

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ところが鳥居の向こうに
「筑紫宮家跡(つくしのみやけあと)」って説明板が立っていました。
え??
ここが?
ちょっとびっくり。
6世紀の初め、大和朝廷は北部九州の豪族、磐井(いわい)の乱を抑えました。
その後の拠点としてつくったのが宮家。
南区には三宅(みやけ)という地名が残っているので、
ここがその宮家ではないかといわれているのです。
でも、遺跡や遺物は確認できていません。
一方、博多区の比恵遺跡からは倉庫群が発見されていて、
そちらの方が宮家跡ではとする説が有力視されています。
大宰府政庁の前身の筑紫宮家はいったいどこにあったのか??
うーむ。気になります。

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この地は今は若宮八幡宮になっています。
本殿の梁を支えている金色のこのお方はだれなのかしら??

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こちらも気になります。
 ※参考/若宮八幡宮境内案内板
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2015年12月03日

博多寶照院大黒天像ご開帳

以前から訪れてみたいと思っていた博多寶照院大黒天像ご開帳。
本日仕事帰りに立ち寄ることができました。
この大黒天像が見られるのは年に二日だけ。
大黒天像は最澄の作と伝えられ、かつては宝満山にあったもの。
大雪で山中に閉ざされた行者たちに塩をもたらしたという伝説が残っているそう。
近づくと旗が立っていました。

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このあたりは戦争で焼けなかったということ。
なんともいい感じです。

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お堂に入り、やっと大黒天像とご対面。

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黒光りして、なんともよいお姿です。

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クスノキの一本作り。
虫食いの穴と割れもありますが、
これまで見たどんな大黒天とも違います。
ふくぶくしく、どっしりして、いつまでも見ていたい気になりました。
700円の福引は参拝者が引くと、太鼓を鳴らして景品の名を言います。
威勢がよく気持ちがいい。
わたしもやってみました。小判が出ました。

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小判は100本に1本しかないということでした。

参拝が終わると右手の喫茶店でぜんざいをいただけるご接待がありました。

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博多のぜんざいは甘く、黄色いてんこ盛りたくわん付き。これですね。

中に入るとご住職がいらっしゃって、お話を聞けました。
元々寶照院は百段がんぎの右奥にあった奥の坊だったということ。
そして御住職こそ、宝満山の護摩焚きで問答をされていた方なのでした。
明治の廃仏毀釈で宝満山を去ったあと糸島に寶照院を作り、
その後博多で途絶えていた智楽院に呼ばれて移ってきたのだそう。
では智楽院のご本尊は?と問えば、それは秘仏で公開しないとのこと。
わずか6.5cmの北辰妙見大菩薩像。
お写真を見せていただきましたが、そんなに小さいとは思えない精巧なものでした。

大黒天像は12月2日と3日のみのご開帳。
次に見られるのは一年先のことですが、
ぜひ一度お出かけください。
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2015年07月11日

菅公伝説〜鍬の柄橋

7月25日の「太宰府伝説の旅」のイベントが近づいています。
そこで今日も伝説の地を一つ、撮影してきました。
筑紫野市紫の高尾川に架かる小さな橋です。

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ではこの橋にまつわる伝説をご紹介します。

「無実の罪を晴らすため天拝山に上って祈っていた道真公。
ある日高尾川にさしかかったとき、
橋がなくて渡れず困っていました。
その時通りかかった農夫が鍬の柄を差し出して橋の代りにしてくれました」

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分かりづらいと思いますので、太宰府方面からの行き方も。
3号線を高尾交差点で右折。
県道65号を二日市に向かって進むと、左手にセブン-イレブンがあります。
その先に西尾産婦人科医院があります。
その先は三叉路になっているので、一番左の道へ進みます。
すると高尾川があり、そこに架かる小さな橋が鍬の柄橋です。
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2015年07月07日

鯰石

7月25日に開催される太宰府伝説の旅のモチーフの一つなので、
鯰石を撮影してきました。

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その伝説とは。。。標識にはこんなふうに書かれています。

「昔このあたりは葦が生い茂る沼地でした。
あるときここを通りかかった道真公は大鯰に道を妨げられます。
道真公が腰の刀を抜き取ると、大鯰の体は頭と胴体と尾の三つの石になって飛び散りました。」

胴体の部分がこの巨石。
普通の民家にあります。
やっぱりどきっとする光景ですね。
じゃ、頭と尾は?
頭は向かい側の崖の急斜面に、
尾は民家の庭先にあるらしいです。

さて、探すのは超難関でした。
このあたりかなという勘だけで行くのでなおさら。。。
でも見つけました。車で行けます。
行き方を記しておきましょう。場所は筑紫野市になります。
太宰府から行くと、3号線高雄の交差点、グッデイを二日市方面に向かい
ファミリートの右の筋に右折して入ります。
一軒家のゆき美容室が左にあるので、
そのまままっすぐ森をめがけて進みます。
その森の下の民家にあります。
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2015年01月30日

高橋紹運の首塚

前回の紅姫供養塔のあと、
高橋紹運の首塚も案内していただきました。

以前、やっぱり案内していただいたことがあるのですが、
団体のコースだったので、その後自分一人で行くことはできませんした。
今回、やっと場所を把握しました。

さて、高橋紹運(じゅううん)とは?

時は戦国時代、
天正14年(1586年)に島津方に攻められて落城した岩屋城の城主です。
7月14日、島津軍は般若寺跡を本陣として岩屋城の攻撃を開始。
島津軍勢は4万とも5万とも言われています。
それに対する高橋勢はわずか七百六十余名。
7月27日。岩屋城で粘っていた高橋軍もついに敗北を悟り全員が討ち死にしました。
なんとむごい。
今、政庁後からも見える岩屋城跡はそんな惨劇の跡でもあるのです。
紹運の墓は城跡からすぐ下にさがったところにあります。

でも首は般若寺跡に本陣を置いた薩摩勢が首実検を行い、
そこにそのまま葬られています。
討ち取った島津軍の大将、忠長も敵ながらあっぱれと、その死を悼んだということ。

さて、首塚のある場所もたいへんわかりにくいです。

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南体育館近くの坂道を上っていきます。

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え、こんな道をってところを進みます。

右手に出てきます。

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戦国の花と言われた紹運。
でも首塚は人知れぬ場所にあるのです。

[ここに地図が表示されます]

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2015年01月28日

紅姫供養塔はどこ?

今日は紅姫供養塔を探しに行きました。
場所は太宰府市立南体育館の近くということしか分かりません。

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とりあえず、周囲を探してみます。
見当たりません。
人に尋ねようにも歩いている人がいない。。。

近くにお店があったので入って尋ねてみました。
知らないけど近くで見たような気が。。。とおっしゃるので
そのあたりを探してみます。
やっぱり見つからないので、今度は民家の軒先にいた住人の方に尋ねます。
中にいらした奥さままで呼び出して聞いてくださったのですが、
分からないということなので市の施設の方に尋ねたらとアドバイスを受け、
また歩き始めます。
このあたり市の施設がいろいろ集中しているんですね。

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南保育所です。

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太宰府市立南児童館です。
入って尋ねてみました。
すると助っ人登場!
知っているので案内してくださるということ!
しかも三人も。。。。

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え?ここ?
分からないはずです。

とてものっぽなマンションが建っていて、
紅姫の供養塔はもともとそこにあったのだそうです。
そしてマンション建設と共に近くに移されたということ。

マンションの左手の道を左折すると公園がありました。

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右の祠が供養塔です。

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ここで紅姫のご説明。。。

菅原道真公は一人で太宰府に来たわけではありません。
二人の幼子といっしょでした。
息子の隈麿(くままろ)と娘の紅姫です。
翌年隈麿は病気で亡くなり、その墓は榎社の近くにあります。
隈麿に次いで翌年、道真公も亡くなってしまいます。
残された紅姫がその後どうなったかはよく分かっていないようです。
一説には土佐に流された道真の長男、高視の元に向かったと言われています。
一人残された紅姫を哀れんで、この供養塔は建てられたのでしょうか。。。

紅姫供養塔はここのほかにもう一つあります。
榎社の社殿裏です。

★紅姫供養塔はこちら

[ここに地図が表示されます]
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2014年02月09日

久留米市北野天満宮風流(ふりゅう)と菅原道真の関係

先日、九博『国宝 大神社展』開催記念イベントで見ることができた
久留米市北野天満宮の風流(ふりゅう)。
この風流、実は以前から興味があって、
でも見る機会などなくて時は過ぎていたのですが、
今回見ることができてとてもよかったです。
そして、わたしの頭の中には数々の疑問が…???
そこでちょっと調べてみました。
久留米市北野天満宮風流(ふりゅう)と菅原道真は関係が深かったのですね!

この風流の動きは独特なんです。実に不思議。
片足でけんけんが多用され、
持っているばちはとても小さい。
けんけんして、よれよれ〜ってして太鼓を叩くんです。
それに出で立ちも変。
頭にお皿があるみたい。河童??
そうなんですよ。河童だったんです。
さすが河童伝説の残る筑後川沿いの風流。
では、まず少し映像をごらんください。



さて、では風流の由来の一つです。
京都を追われた道真公、海路を大宰府に向かいますが、
途中、暴風雨にあって船は難破。
漁船に助けられて椎田に到着。
中津→日田。そして筑後川を船で下って北野の岸辺に着きます。
ここで追っ手に襲われます。
そのとき河童の頭「三千坊(さんぜんぼう:河童3000匹を束ねていたからか??。何らかの未知集団であったのかも?)」が現れ道真公を救出。
でも河童の「三千坊」は片腕を切り落とされ絶命。
その後、北野天満宮の御神幸祭には河童への感謝を込めて「河童風流」を奉納。
そのときの河童の手は北野天満宮の宝物として大切に保管(非公開)されているとか!

太鼓を叩いているのは風流士。
頭につけているのは赫熊(しゃぐま)と言います。

稚児は大小の鉦や鼓を叩きます。
小学校3年生までの稚児は男の子で、女の子の格好をしてお化粧もしています。

一人の烏帽子水干姿の稚児がこう向上を述べます。

「東西東西 御静まり候らえ 御静まり候らえ
そもそも筑後国河北荘 千代の中村より出たる風流と申して よりもて興ずるは
当社天満宮のお祭りより事起り されども中頃おとたえて 相続するものなかりしかば
村人ども集りて すたれたるを起こし すたれたるをついで
遠時昔の形ばかりなる しらゆうの袖を返し 進上謹み奉る
音楽の皆々はやし候らえ 御はやされ候らえ」

※参考文献:NPO無形民俗文化財アーカイブズ
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2011年12月24日

大阪天満宮「天神様のご一代」その15 天神祭

長らく引っ張ってきました
大阪天満宮「天神様のご一代」もラストになりました。
天神祭です。

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※説明書きより
7月25日に行われる日本三大祭の一つ、
天神祭の当日は数十万の参拝者で境内は溢れ、
神楽を奉納する人は引きも切れません。

いよいよ今年も押し迫って参りました。
いろいろ片付けなくてはならないことばかりで
でもなかなか片付かない…そんな師走です。

お正月の人出に反して、今の太宰府はとても静かです。

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2011年12月20日

大阪天満宮「天神様のご一代」その13 安楽寺

大阪天満宮「天神様のご一代」その13 安楽寺。
ついに道真公が亡くなります。

安楽寺_1_1.jpg

※説明書きより
配所生活三年、
遂に59歳で亡くなられました。
その御遺骸は安楽寺の境内に葬られ、お社が建てられました。
即ち、太宰府天満宮です。

牛は今、正に牛車を曳いているよう。
人形師の技が冴えています。
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2011年12月19日

大阪天満宮「天神様のご一代」その12 配所の月

10月に受けたある検定試験ですが、
落ちました。
上位27%くらいが合格だったのですが、至らず…。
かなり頑張ったんだけどだめだった…。
ちょっと凹んだけど、もうくよくよしません、
忘れて前を見ます。
再チャレンジできるとしたら再来年になるけど、
そのとき状況が許せば、また受験します。


さて、大阪天満宮「天神様のご一代」その12です。「配所の月」。
やっと大宰府が登場です。

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※説明書きより
配所ではひたすら謹慎の日を送られ、
前年、宮中で行われた詩会を偲び、「恩寵の御衣」と題し、
有名な詩を詠じられました。
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2011年12月18日

大阪天満宮「天神様のご一代」その11 大将軍社参拝

大阪天満宮「天神様のご一代」その11は「大将軍社参拝」です。

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※説明書きより
途中、難波碕に立ち寄られ、大将軍の森にお祀りしてある
大将軍社(当天満宮摂社)に参拝されました。

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2011年12月17日

大阪天満宮「天神様のご一代」その10 道明寺の別れ

大阪天満宮「天神様のご一代」その10は「道明寺の別れ」です。

道明寺の別れ_1.jpg

※説明書きより
大阪の道明寺では伯母君の覚寿尼と尽きぬ名残の一夜を語り明かし、
一番鶏の声にあわただしく出発されました。

※以下、ウィキペディア参考
道明寺(大阪府藤井寺市)の周辺は、
菅原道真公の祖先の豪族、土師(はじ)氏の地元だったそう。
当時は七堂伽藍や五重塔もある大規模なお寺でした。

わたしなどは、道明寺といえば道明寺粉を思い浮かべます。
桜餅などに使われているものですね。
道明寺粉は道明寺の尼が乾燥した糯米を挽いて粉状にしたのが始まりだということです。
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2011年12月13日

大阪天満宮「天神様のご一代」その9 紅梅殿

大阪天満宮「天神様のご一代」その9は「紅梅殿」です。

紅梅殿_1.jpg

※説明書きより(ピンボケ写真からの引用のため、間違っている可能性あり…)

藤原氏の妬みで大宰府に流されることになり、
庭前の梅に
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
と歌を詠み、九州にお立ちになりました。

有名な歌を詠むシーンですね。
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2011年12月12日

大阪天満宮「天神様のご一代」その8 恩賜の御衣

大阪天満宮「天神様のご一代」その8は「恩賜の御衣」。

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※説明版より
昌泰3年9月、
清涼殿において諸卿といっしょに「秋思」という題を賜って詩を作られましたが、
それが大変立派なできばえでしたので、
醍醐天皇のおほめに預かり、
天皇お召しの御衣を頂戴されました。
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2011年12月11日

大阪天満宮「天神様のご一代」その7 手向山八幡宮参拝

大阪天満宮「天神様のご一代」その8は「手向山八幡宮参拝」。

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※説明版より
宇多天皇の御伴で、手向山八幡宮参拝の時、
「この度(たび)は 幣(ぬさ)も取り敢えず 手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに」
と詠まれました。
百人一首に出ている有名な和歌です。


和歌の意味はこんな感じ。
宇多天皇に従うたびは、あわただしくて、御幣の用意もできませんでした。
でも御幣を捧げる手向山に来たところ、
紅葉はまるで錦のよう。
御幣の代わりにこの紅葉捧げますので、
安全なたびの祈願は神さまの御心のままにお願いします。

平安時代のたびは御幣を捧げつつ進んだのですね。
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2011年12月09日

大阪天満宮「天神様のご一代」その6 讃岐守の仁政(二)

大阪天満宮、「天神様のご一代」、その6は讃岐守の仁政(二)。

※説明書きより
旱魃(ひでり)に悩む農民を救うため、
山に登り、祈祷を捧げられました。

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菅公は40代であった仁和2年(886年)に讃岐守になっています。
寛平2年(890年)に帰京するまで4年間任地にいました。

この場面は劇的で、
人形師も迫真の表情を表現しています。

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2011年12月08日

大阪天満宮「天神様のご一代」その5 讃岐守の仁政(一)

大阪天満宮「天神様のご一代」、その5、讃岐守(さぬきのかみ)の仁政(じんせい)(一)です。

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※説明書き写し忘れ。。。すみません。。。
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2011年12月07日

大阪天満宮「天神様のご一代」その4 渤海の朝貢使

大阪天満宮「天神様のご一代」その4は「渤海の朝貢使」。

渤海の朝貢使い_1.jpg

※説明版より

39歳のとき、渤海の使者を接待された菅公の詩才には
一同驚いたということです。


posted by 理乃(ニックネーム) at 20:28| 福岡 ☁| Comment(3) | ●太宰府市外 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする