2015年07月05日

太宰府検定関連講座 memo

【2015.07.05 太宰府検定関連講座
古代の大宰府〜その成立と展開
太宰府公文書館・文化ふれあい館 重松敏彦氏 memo】

太宰府検定関連講座を聴いてきました。
第一章は大宰府の官職の内容、その特徴、最後の大宰府権帥平惟仲のことなど。
第二章は大野城関連。
9つの城門、8カ所の礎石建物群、774年の四王院の設置。
それは4カ所にあったのではなく、一つにまとめてあったのではないかという説の存在。
四天王法は大宰府だけにあったのはなく、他国にもあったこと。
第三章は大宰府の成立。
大宰府の起源「那津宮家」の表記の問題。屯倉、官家、屯家、三宅、屯宅、御宅があるが、
一般的な表記は屯倉。
最近はミヤケと表記されることが多いとのこと。
日本書紀にだけ屯倉と官家両方が記載されており、
那津官家だけが官家の表記。
それは日本書紀を書いた人が官家の表記を屯倉に置き換えたのではないか。
そして那津官家にだけ官家という表記を残したのではないか。
ミヤケ制の中で那津官家をどう考えるかという重松氏の視点が今日の講座のポイントでした。
最後に重松氏の話にあった、福岡県の国の特別史跡は4つ。
大宰府政庁、水城、大野城、王塚古墳。水城があって政庁があって、
背後に大野城がある、まさに史跡の国宝、特別史跡のまっただ中に太宰府はあり、
そういう稀な地で暮らしているということを改めて思わせられました。

★昨日はパリで叙勲を受けて帰国途上のニューカレドニア日本国名誉領事夫妻を
2時間のみの超時短太宰府観光にお連れしました。
セレクトしたのは観世音寺宝蔵、太宰府天満宮、九博。
これで精一杯でしたが、一生懸命太宰府をアピール。
太宰府が忘れられない土地になっていただけるとうれしいのですが。。。
posted by 理乃(ニックネーム) at 15:38| 福岡 ☁| Comment(0) | ★太宰府の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月17日

福岡国際大学の開放授業「古代以前の大宰府」

日本史の勉強で一番楽しいのは太宰府の歴史!
だって住んでいるので肌で感じられるから。。。

ということで、
福岡国際大学の開放授業「太宰府の歴史と文化」に行ってきました。
太宰府って小学校と同じ数だけ大学があるんです。
さすが菅原道真のお膝元でしょ。
大学ってたまに勉強しに行きたくなるから
こういう機会はとてもうれしいです。

この日の授業は「古代以前の大宰府」。
講師は太宰府市教育委員会文化財課の山村信榮(のびひで)氏。

大宰府政庁ができたあとの太宰府は少し知っていても
それ以前はどうだったの?って思ってました。

では、以下、拝聴したことを少しご紹介します。

最近の学説では人類が誕生したのは500万年前。
日本には4万年前くらいから人が住み、
太宰府には2万9千年くらい前から人が住みだしたらしい。

旧石器時代の石器は大佐野あたりからも出ています。
獲物を追って来た人々が残した石器。

弥生時代の矛の鋳型は国分から、
甕棺は国分や高雄などから出ています。
顔に赤い顔料を塗って埋葬されていたといいます。
わたしたちのようにお米を食べ、
手厚く埋葬された弥生の人の日々の暮らしはどのようなものだったのでしょう。

古墳時代の遺跡も窯跡などたくさんあります。
向佐野の宮ノ本遺跡は古墳のほか、
古代の墳墓群や須恵器窯などが混在する遺跡。

旧石器時代という途方もなく遥かな時代から
人々が営みを繰り返してきたこの地。
あまりにも遥かなときを思うと
いつもくらくらめまいがしてしまいます。
いつの時代も人は死を悲しみ悼んできました。
それが人というもの。。。

今回は写真がないので
我が家のフリージアでも。。。

フリージア_2.jpg



posted by 理乃(ニックネーム) at 23:00| 福岡 | Comment(0) | ★太宰府の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月13日

朝倉橘広庭宮は太宰府にあった??

土曜は太宰府の歴史に関する講演を聞いたのですが、
面白い説でした。

それは朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなひろにわのみや)は太宰府にあったのでは?
という説です。

朝倉橘広庭宮とは661年に百済を救援するために
斉明天皇が3月に娜大津(福岡市博多区)に来て、
磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入ったあと、
5月に遷したところといわれています。
しかし斉明天皇は7月に亡くなります。

朝倉橘広庭宮は朝倉市にあると推定されてきましたが、
遺構は発見されていないのです。
そして朝倉橘広庭宮に関する伝承は太宰府にも見られるというのです。
その後、水城や大野城が築かれることからも
朝倉橘広庭宮が太宰府にあった可能性は大きいのではという説でした。

太宰府にある観世音寺は『続日本紀』(しょくにほんぎ)の記述によると、
天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したものと言われています。
近くで亡くなったからこそ、
この場所を選んだのではと思われてきます。

さて、以前都府楼跡の発掘が行われた際、
出てきた遺構の下に、
その前の時代のもの、
そしてさらにその下にもっと古い時代のものがありました。
それこそ、朝倉橘広庭宮ではないかというのが
今日の説。
スリリングな展開です。

古代史の舞台、太宰府。
そして遺構があちこちから出てくる太宰府。
太宰府には古代のロマンが渦巻いています。
水城を越えて太宰府に戻ってくると
タイムスリップしたような気分になるのです。



posted by 理乃(ニックネーム) at 02:12| 福岡 ☁| Comment(0) | ★太宰府の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月11日

太宰府の歴史 study1  大宰府ってなに?

たまにですが、機会を見つけ、
太宰府の歴史の勉強をしています。
ちょっぴりですが、
学んだことをできる限り分かりやすく紹介していきたいと思いますので、
太宰府の歴史に興味がある方はごらんください。
(体系的なものではなく、脈絡なくわたしの学んだ順に書いていきますので、悪しからず)


今の太宰府は太いという字の「太宰府」で、
古代の役所は大きいという字の「大宰府」です。

では大宰府とは何なのでしょう?


■大宰府ってなに?

それは
「日本律令国家の対外的機能、軍事的機能の一端を担い、
かつ西海道全体を統轄(管内支配機能)した、
当時としては最大の地方官衙(かんが/役所)」

対外的機能には蕃客、帰化、饗讌などがあります。
蕃客(ばんきゃく)は外国使節の管理監督。
帰化は帰化志願者の管理監督。
饗讌(きょうえん)は外国使節に対する迎接の宴会。
このうち饗讌はいろんな地方国衙があるなかで、
大宰府だけが行っていたといいます。

■大宰府の遺跡って1つ?

大宰府の発掘作業が始まったのは1968年のこと。
そのとき地表に転がっていた礎石が大宰府が作られた当初のものと思っていた発掘者たちは
そうではなかったことに驚いたといいます。
そのとき地表に出ていた礎石の下に、さらに古い時代の遺構、
その下にさらに古い遺構が出てきたのです。
それで大宰府政庁の遺跡はT期からV期まであることが分かりました。

第T期政庁 7世紀後半〜8世紀第T四半期
第U期政庁 8世紀第1四半期〜10世紀前半
第V期政庁 10世紀後半〜12世紀前半



posted by 理乃(ニックネーム) at 23:12| 福岡 ☔| Comment(2) | ★太宰府の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする